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歴史紀行第16回  ~毛利元就編その② 吉田郡山城の戦い

 戦国時代、中国地方の覇権を2分したのが周防(山口)の大内氏と山陰の尼子氏。毛利元就は最初山陰の尼子方につきますが、毛利家の家督問題に介入してこられたことなどから後に周防の大内氏に乗り換えます。これを良しとしない尼子氏はついに天文9年(1540年)9月安芸国へ侵攻。3万の大軍で吉田郡山城を取り囲んだのです。元就43歳の時でした。これを「郡山合戦」と言い、この後長く後世に語り伝えられることとなったのです。
 元就は合戦を前に一族郎党から近隣の農民、町民に至るまで老若男女問わず総勢8000人と言われる領民すべてを城の中に入れました。兵の数は2400足らずでしたが、毛利方は女人や子供に至るまで竹や棒の先に金紙・銀紙をつけて城内の壁際に並ばせ、打ち振らせて多くの兵がいるように見せたと言います。周辺には竹柵や逆茂木をめぐらし、山中や林の中には伏兵を潜ませ、数カ月にわたって得意のゲリラ戦で対抗。尼子軍は郡山城に容易には近づけませんでした。12月、待ちに待った大内方の援軍1万が到着。これと呼応した毛利軍は年が明けた天文10年1月、ついに城を出て尼子軍へ総攻撃を開始。厳寒での乱戦の中、名だたる武将を討ち取られ、長期の派兵で食料も残り少なくなり大敗を喫した尼子軍は、折しも降ってきた大雪の中、夜陰に紛れて全軍を撤退させることとなりました。
 兵と村人たちが一致団結して大尼子軍を郡山城内へ一矢も打ち入れさせず退けたことで、元就はその名を天下に轟かせることとなったのです。  (つづく)
(郷土作家 つかさまこと)