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歴史紀行第18回~「鎌倉殿の13人」と安芸国(承久の変)

 現在放映中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」そのクライマックスとして
描かれるであろうのが「承久の変」この事件がその後の安芸広島地方に大きな影響
を及ぼすことになるのです。
 共立病院周辺の中世の安芸国を見るとき多大な影響を与えたのが、鎌倉時
代に日本中を揺るがす争乱となったこの承久(じょうきゅう)の変。3代将軍源実朝の暗殺
後、弱体化しかけた鎌倉幕府に対し、今こそ討幕のチャンスと承久3年(1221年)、
京都の後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北条義時に対し、追討の院宣を発して諸国の兵を
集め挙兵。1185年、源頼朝によって打ち立てられた武家政権に対し古来より続く
天皇を中心とした朝廷政治の復権を目指したものでした。しかし鎌倉方の精強な東国
武士団の結束固く、上皇側はあえなく敗退。そしてこれによって主に西国にあった
上皇側の公家や武士の所領約3000ヶ所が没収となり、鎌倉方についた武士たちに分け
与えられました。
 この承久の変での活躍に対する恩賞として、中世の安芸国でこれ以後戦国時代にわ
たるまで活躍することになる、武田(安芸)、熊谷(可部・三入)、香川(八木)、
毛利(吉田)など名だたる顔ぶれの武士団の数々が次々と関東から移り住んで来て、
この地に定住するようになってゆくのです。武田は甲斐(山梨)、熊谷は武蔵(埼玉)、
香川・毛利は相模(神奈川)がもともとの領国でした。軍事、政治はもとより寺社の
勧請や文化、風俗に至るまで、以後のこの地域や人々に大きな影響を与えたという意味
で、安芸国の安佐南・安佐北近隣地域にとって承久の変はひとつの大きなエポックで
あったと言えるでしょう。
            (つづく)
               郷土作家 つかさまこと