地域まるごといきいきブログ

歴史紀行 第20回~長束 賽神社(さいのかみしゃ)と西国街道

 
 今回は長束の賽神社をご紹介。祇園の帆立地区(JR下祗園駅南辺り)が平安時代末期頃から「倉敷地」として内陸から太田川の水運を使って荷揚げされてくる年貢物などの一大集積地だったことは前回ご紹介しました。広島城築城後(1600年~)は城下のデルタの陸地化も進み、京より九州方面に向かう西国街道や城下から出雲・石見へ向かう雲石街道などでの人の行き来が盛んになり、長束村はその結節点として賑わいを見せます。雲石街道から西国街道への脇街道として、長束から山本を経て火山北側の権現峠を越えて沼田・伴へ抜ける道や、山本から畑峠を越えて己斐・草津方面へ往来する人が多くなりました。長束蓮光寺から雲石街道(現在の旧国道)を越え山本へ向かう辺りの道端にひっそりとあるのが賽神社の小さな祠。(写真) いつの頃からか「道先案内・往来安全・五穀豊穣・疫病退散」を願って創建されたと言います。江戸時代になると天明(1700年代)、天保(1800年代)期には大飢饉もあり、長雨、風水害、疫病なども流行し、当地でも大きな被害を出したとか。賽神社は地域の守り神として、道行く旅人やこの地に住む村人たちの信仰の拠り所となったのでした。境内にはこの地でも市場が開かれたらしい「共有地市場組」の石碑や、「弘化5年(1848年)」と彫られた石灯篭が残り、当時の姿を今に伝えています。 
   (つづく)
   郷土作家   つかさまこと